相思社

初期の水俣病患者の多くは漁師でした。漁師は少数派です。少数者の漁師に対する偏見は各地に見られますが、水俣でもあったようです。水俣やその近くの漁師は明治の中期以降に天草地方から渡ってきた人が多く、そういった「よそ者」に対する偏見もありました(「天草流れ」と呼んでいました)。水俣病患者=漁師=よそ者=貧乏人といったイメージがあったと思われます。そういう意味では水俣病によって差別が生まれたというより、もともとあった偏見差別に水俣病の差別が重なったと考えるべきでしょう。 水俣病の原因がチッソであることは昭和32年頃にはチッソ工場の人だけではなく、水俣市民も気がついていたようです。チッソ工場は水俣で一番大きく重要な工場です。チッソがあったから水俣は村から町、そして市への大きくなっていきました。チッソがあやしいとわかったときからチッソ工場の人たちだけではなく、市役所の人もそれ以外の市民も水俣病のことを言わなくなっていきました。市民の多くはチッソを守りたいと思っていました。水俣にはチッソ工場で働いている人やその家族も多かったからです。だから、チッソ工場に漁民が押しかけたときも、かん者が座り込んだときも、漁民やかん者を応援する人はほとんどいませんでした。